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東京地方裁判所 昭和55年(ワ)13100号 判決 1983年9月26日

原告

金山宣夫

右訴訟代理人

中村博一

渡邊一治

清水正英

被告

株式会社中央公論社

右代表者

嶋中鵬二

被告

正慶孝

右二名訴訟代理人

今井文雄

主文

一  被告らは、原告に対し、各自金九七万六二六〇円及びうち金八〇万円に対する昭和五五年一二月一九日から、うち金一七万六二六〇円に対する昭和五六年一一月六日から各支払ずみまで各年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを一〇分し、その九を原告、その一を被告らの各負担とする。

四  この判決は原告勝訴の部分に限り仮に執行することができる。ただし被告らが共同して金五〇万円の担保を供するときは、右仮執行を免れることができる。

事実《省略》

理由

一原告の現職を除く経歴は当事者間に争いがなく、<証拠>によれば、原告は現在東和大学國際教育研究所に勤務し、國際関係、企業経営、比較文化の三分野にわたる研究をしていること、及び別紙記載のとおりの主要著書等を発表していることが認められる。

そして、<証拠>によれば、右主要著書等について、相応の評価を得ていることが認められる。

二原告は、昭和五五年二月二一日午後三時三〇分頃、東和大学國際教育研究所において、被告正慶に対し、大部の原稿を預け渡したこと、及び被告正慶はこれを紛失したことは当事者間に争いがない。

そうすると、被告正慶の右行為(預託を受けたものを紛失し返還不能としたこと)は、原告に対する不法行為に該当することは、明らかである。

三被告らは、被告正慶は右原稿を個人として受領したもので、被告会社の業務の執行として受領したものではないから、被告正慶の右不法行為により被告会社が責任を負うことはないと主張するので、検討する。

1  被告正慶の最終学歴、被告会社内における地位については当事者間に争いがない。

2  <証拠>によれば次の事実が認められる。

(一)  原告は、昭和四六年、被告会社発行の雑誌「経営問題別冊」に寄稿を求められ、國際適応学に関する論文を二回掲載した。被告会社の担当者は伊藤実であつた。

原告と被告正慶は、昭和四七年一〇月頃、被告会社内で右伊藤の紹介で知り合つた。被告正慶は、当時「経営問題」編集部員であり、原告が前記の寄稿者であることを知つていた(原告と被告正慶が昭和四七年頃伊藤の紹介で知り合つたことは当事者間に争いがない。)。

(二)  昭和四九年暮頃、当時「中公新書」編集部に在籍していた被告正慶と原告は、地下鉄銀座線に乗り合わせ、相互に仕事の話をしているうち「何か書いてみないか」(被告正慶)、「何か書かせてほしい」(原告)という話になつたことから、原告はかねて研究中のテーマについて「中公新書」にとりあげてもらう機会を得たいと考え、被告正慶に対し原稿のコピーを送付したり、自己の論文について被告正慶の意見を求めるなどして接近するようになつた。そして、昭和五〇年三月頃、原稿を書き上げて被告会社に持参し、被告正慶に対し「中公新書」として検討することを依頼した。

右原稿は、「経営問題」に掲載したもの、「実業の日本」に掲載したもの、書き下ろし部分と三つの部分からなるものであつたが、被告正慶は、同年四月八日の編集会議にかけ企画採用の決定を得たうえ、原告と頻繁に打合せを行い、内容の加除、表現の訂正、構成の修正等をして、同年七月、これに自ら「國際交渉」というタイトルをつけて出版した。

原告は、同書の前書に「出版元の正慶孝氏が私のもつているものを巧みに引出してくれた。おかげで本書は形をなすことができた。」という趣旨のことを書き、被告正慶に謝意を表している。

右「國際交渉」は、初版が一万七〇〇〇部印刷され、以後増刷されていない。右出版による原告の収入は、定価三六〇円、印税一二パーセント、印税免除四七〇部であつたから、七一万四〇九六円であつた(16530部×360円×0.12=714096円)。(國際交渉は被告正慶が担当して出版されたことは当事者間に争いがない。)

(三)  原告は、これらの作業を通じ、被告正慶が学識も豊富であり、編集者としても非常に有能であることん知つて被告正慶を尊敬し、信頼するようになり、その後も他社で出版した本や雑誌の記事、原稿等を送付したり手渡したりなどして、被告正慶の意見、アドバイスを求め、個人的にも親しい間柄となつた。また、被告会社の企画の中で國際関係のものがあれば書かせてほしいと申し出ていた(原告と被告正慶が個人的に親しかつたことは当事者間に争いがない。)。

被告正慶も原告のことを高く評価し、株式会社リクルートセンター発行の「月刊リクルート」昭和五二年七月号がとりあげた原告の人物紹介では、原告のことを「一言でいうならば安易な選択をしない人。たとえば氏の能力をもつてすれば、もつと金もうけができるはず。それをしない。テレビにも出たがらない。考え方、分析の方法は事実中心。偏りがない。最近の二〇〇カイリ問題にしても、何年も前から、日本が魚を獲りすぎていることを数字に基づいて主張していた。個人的にもつきあつて大変気持のよい人」と評している。

四 「國際交渉」出版以後本件までの原告と被告正慶とのかかわりあいのうち、被告正慶が記憶しているものは次のとおりである。

(1) 昭和五二年一〇月頃、原告が「コミュニケーション」という雑誌に連載した小村寿太郎の伝記の原稿を被告正慶に見せ、同被告は一読後返還した。

(2) 昭和五三年四月頃、内容については記憶していないが原告から本にするという原稿をみせられ、アドバイス、参考意見を求められた。

(3) 昭和五四年夏頃、原告から東和大学紀要一九七九NO.5の抜刷り「台湾蘭嶼からの報告―東アジア現代文化研究序説―」の送付を受けた。

(4) 昭和五四年一〇月頃、原告が旧満州及び朝鮮に関する紀行文及び見聞録四冊を示し、「中公文庫」にとりあげてもらい解説を書きたいと申し出たことがあつた。

(5) 昭和五四年一〇月下旬頃、被告正慶が原告に対し「中央公論」の東風・西風欄に、非同盟諸國会議についてという表題で非同盟諸國が転換期にたつていることを鮮明に印象づけるものを書いて貰いたいと依頼し、原告はこれを寄稿した。

(五)  被告正慶は、原告から電話を受けて昭和五五年二月二一日午後三時三〇分頃当時千代田区紀尾井町にあつた原告の勤務先である東和大学國際教育研究所へ赴き、原告からそのライフワークであるという本件原稿を受領した。原告の意図は、被告正慶に読んで貰つたうえ、適当な箇所を「中央公論」に掲載して貰いたいということであり、そのためにも被告正慶のアドバイスを受けたということであつた。しかしこのことについて原告と被告正慶との間で特に話合われたことはない。

本件原稿は、二〇〇字詰原稿用紙約一五〇〇枚で、題名、目次、ノンブルのない、鉛筆書きの判読しにくい文字で書かれたものであつたが、被告正慶は、被告会社内及び自宅で閲読して被告らの主張(四)記載のとおりの印象を受け、被告会社が発行する雑誌への掲載、又は書籍としての出版には適さないと判断したので、「中央公論」の編集会議にはかけず、又他の雑誌、書籍担当の者らに取次ぐこともせず、いずれ返却しようと考えているうちその所在についても失念し、四月九日、原告から「どうなつているのか」との問合せの電話を受けて右原稿を預つていたことを思い出し、身辺を探したが発見することができず、翌一〇日原告に紛失したことを申出た(右原稿を預つたこと、紛失したことは当事者間に争いがない。)。

(六)  原告は、はじめ被告正慶だけを相手に原稿の探索、返還を求めていたが、被告正慶が、被告会社内に置いてあつたところ電話工事業者、清掃業者の出入りがあつたので紛失したかもしれないとか、友人のマンションに置き忘れたかも知れないとか、飲み歩いている間に紛失したかもしれないとか、國電或いはタクシーに置き忘れたかも知れないなど、紛失した日時、場所を特定することさえできなかつたうえ、四月一八日に個人的責任として解決する趣旨で金一封の提供を申し出たため、責任の所在が明確にされないことに不信感を抱き、同月二〇日、雑誌「中央公論」の編集長である青柳正美に対し被告正慶が本件原稿を紛失したことを告げた。

青柳は、はじめて被告正慶が本件原稿を預つたこと及びこれを紛失したことを知り、次のとおり調査を開始し、五月二日その旨原告に報告した。

(1) 四月二一日(月)

被告正慶から事情を聴取したうえ編集部員個別に事情を聴取した。同月二八日(月)までに聴取を終えたが、編集部員らは、被告正慶が紛失物を探していることを知つているだけで本件原稿について知つている者はいなかつた。

(2) 四月二二日(火)

編集局長に報告し、被告会社としての探索方法等の検討を上申した。清掃業者の現場責任者に対し事情を説明し、清掃員の調査を依頼したが翌二三日本件原稿に記憶はない旨の回答があつた。

(3) 四月二八日(月)

編集部としての探索について編集局長に中間報告した。

(4) 四月三〇日(水)

編集会議で全編集部員に再度身辺の探索を行うよう指示した。

(5) 五月二日(金)

編集部周辺を探索したが発見されなかつた。

また、原告からの問合せに対し、五月九日付で、屈出人被告正慶として財団法人東京タクシー近代化センター、京王線新宿駅、営団地下鉄新宿駅、営団地下鉄遺失物取扱所、東京都交通局遺失物係、警視庁遺失物管理所、北沢、高井戸両警察署にそれぞれ遺失物届を出し、個人タクシーには被告会社を連絡先として遺失物届をしている旨報告している(いずれも中央公論社用箋を使用し、個人名で書かれている。)。

(七)  原告は、昭和五五年五月一五日、被告会社の編集局長松村和夫宛に紛失原稿の捜査と善後策について依頼する書面を発送し、さらに同年六月一六日、原告訴訟代理人から被告会社代表者嶋中鵬二にあてて原稿の返還請求を行つたところ、被告正慶は、同年七月九日付で、本件原稿を紛失し返還不能となつたことを陳謝するとともに、本件原稿を預かつたのは被告会社の業務とは関係なく被告正慶個人の好意から出たことであるので、紛失の責任は被告正慶個人にある旨の回答をした。

以上の事実が認められる。

原告本人の、本件原稿は雑誌中央公論に使つて貰うということで渡したという趣旨の供述部分、被告正慶の、原告は友人としてアドバイスしてほしいということであつたという趣旨の供述部分は、いずれも採用しない。

3  右事実に基づき被告会社の責任について判断する。

(一)  民法七一五条にいう「事業ノ執行ニ付キ」というのは、被用者の行為によつてそれだけ使用者の社会的活動が拡張されているというところに使用者責任の根拠が求められるのであるから、被用者の意思を基準とするのではなく客観的に判断して、使用者の命令、委任に従つた場合に限らず広く事業の執行行為と同様の外形を有する行為はすべて「事業の執行につき」なされた行為にあたるものと解すべきである。

(二)  本件においてこれをみるに、被告会社の雑誌編集局中央公論編集部次長である被告正慶が、かつて自ら担当してその著書を「中公新書」として出版し、又、執筆を依頼して雑誌「中央公論」に論文を掲載したこともある原告から原稿を預る行為は、客観的にみて被告会社の事業の範囲内の行為であり、かつ編集部員としての被告正慶の職務行為としてなされたものと解すべきである。

(三)  被告正慶は、本件は依頼原稿ではなく持込原稿であり、個人の立場で預つたものであるから、被告会社の被用者としての職務執行とは無関係であるという趣旨の供述をしているけれども、被告正慶の主観的意図によつて前記認定、判断が左右されることはない。

また、<証拠>によれば、被告会社では、郵送されてきた原稿(いわゆる投稿で、これについては常に誌上で返還しない旨を告知してある)については編集長が受領したとき、編集部員が受領してきた原稿については当該部員から編集長に対し原稿を預つている旨の報告があつたときに、被告会社に対する持込原稿として扱つていることが認められ、本件原稿についてはなんらの報告はなかつたことは前認定のとおりであるけれども、そのような手続は被告会社の内部事情にすぎず、また、被告正慶がかねて原告に対し何か書いてほしいと言つていただけでは本件原稿が依頼原稿にあたるとは認められないけれども、被告正慶が原告から直接手渡された本件原稿が、被告会社として返還義務を負わないことを誌上で告知してある投稿(被告会社に限らず、雑誌社、新聞社等に対する投稿は返還されないことはむしろ常識であろう)と同列に扱われるものと解することはできない。

被告正慶が本件原稿を預つたことは被告会社の被用者としての職務行為であり、これを紛失したことによつて原告に生じた損害は、被告会社の事業の執行につき第三者に加えた損害として、被告会社は民法七一五条の責任を免れない。

四次に損害額について検討する。

(一)  <証拠>によれば、本件論文執筆の意図と内容はおおむね原告主張のとおり(請求原因4の(一)、ただし評価に関する部分を除く。本件論文の内容が原告主張のとおりのものであつても、どのような評価を得られたかを裁判上確定することはできない。)であつたことが認められる(内容について前記被告正慶の認識したところとは異る部分があるけれども、被告正慶の場合一読した程度で十分に理解し記憶するまでには至つていなかつたものと考えられるから、右認定と矛盾するものではない。)。

(二)  そうすると、本件原稿を紛失され返還を受けることができなくなつたことは、原告にとつて極めて大きな衝撃であつたことは明らかであり、被告らは右精神的打撃に対する損害を賠償すべきである。

(三)  原告は、自己の執筆方法から、原稿の紛失は同時に資料の一切を失つたことを意味し、本件論文は物理的にも再現不能であるとし、このことや、本件論文を基礎にさらに研究を発展させることができた筈であるのにできなくなつたことをも考慮すべきであると主張するが、原告のような執筆方法が一般的であるとは考えられないし、仮にそのような執筆方法をとつていたとしても、原告が主張するように莫大な素材を用い複雑な理論構築を試み前半生の研究の集大成をはかつたというのなら、主要な部分については記憶に残り、これが失われることはない筈である。目次(甲第一〇号証)、レジユメ(甲第一二号証の一)、第一部に相当する部分の原稿約五六〇枚(甲第一一号証の一)は残されており、寸分違わぬものは書けないとしても、本件原稿を失つたことによつて資料の一切を失つたとか、物理的に再現不能とまでは認定できない。現に原告が紛失原稿との三部作を予定していたという「日本経済の深層心理」(甲第一三号証、定価六五〇円、原告本人尋問の結果によれば四〇〇字詰原稿用紙約三五〇枚の著述であることが認められる。)が、昭和五六年一〇月光文社から出版されており、これが原告主張のとおり本件紛失論文の延長線上にあるものであることはその内容から明らかである。

したがつて、本件論文紛失による損害は、これが物理的に再現不能であることを前提とするのではなく、原告がその持論である第一定年にそなえ、ハーフライフワークとすべく執筆した本件原稿が失われたことそのものについて算定すべきものと考える。そして、そのなかで、本件論文執筆に要した時間、労力等、再度執筆するためのそれを考慮するということになろう。

なお、このような場合、原告にとつては金銭をもつては代え難いものがあるであろうことは充分理解し得るのであるが、裁判上その額を定めるには、おのずから限度があることは言うまでもない。

(四)  そこで慰謝料算出のため考慮すべき事情についてみるに、

(1)  どのような労作であつても出版されない限り収入を得ることはできないのであるから、本件論文が出版された場合に得られたであろう経済的利益に比べ高額であることはない筈である(参考とすべき「國際交渉」による原告の収入、「日本経済の深層心理」の定価は前認定のとおりであり、原告本人尋問の結果によれば、光文社の場合の出版部数、印税等の定め方はほぼ被告会社のそれと同様であること、及び本件論文は「日本経済の深層心理」程度の本の二冊分に相当するものであつたことが認められる。)。

(2)  本件原稿については、原告本人尋問の結果によりその一部が他社の雑誌に掲載が予定されていたことが認められるだけで、その他については出版社が企画としてとりあげるまでには至つていない。

(3)  仮に被告会社が企画としてとりあげることになつたとしても、前記「國際交渉」出版の経緯に照らし出版までにはなお相当の準備が必要であつた筈である。

(4)  弁論の全」趣旨によれば、被告正慶が本件原稿を預つたことはもともと同被告の好意から出たものであることが認められる。(右(3)、(4)に関し、前掲甲第一〇号証、第一一号証の一、第一二号証の一からみて、本件原稿が非常に読みにくいものであつたことは、容易に推認できる。)

(5)  被告正慶は本件論文紛失に対し自己の非を陳謝し、被告会社も被告正慶の個人的行為であるとしながらも、編集部をあげて探索に協力したことも、考慮してよい。

一ないし三で認定した事実及びこれらの事情を斟酌して、原告の精神的苦痛を慰謝するには金八〇万円が相当であると認める。

なお、被告らは、本件原稿を渡すときコピーをとつておくべきであつたのであり、この点の原告の過失を考慮すべきであると主張するが、本件で原告にそのような義務があつたと認めるのは疑問であるうえ、前記のとおり資料の一切が失われたということは考慮しないことをもつて足りると考える。

(五)  <証拠>によれば、原告は、本件原稿を発見するため昭和五五年五月一六日付の朝日新聞、読売新聞に落し物広告文を掲載し、合計一七万六二六〇円を要したことが認められる。そして右金額は、本件不法行為の損害賠償として、被告らが負担すべきものである。

五以上により、原告の本訴請求中金九七万六二六〇円及びこれに対する不法行為の後である八〇万円については昭和五五年一二月一九日、一七万六二六〇円については昭和五六年一一月六日から各支払ずみまで、民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める部分を正当として認容し、その余を棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法九二条、九三条を、仮執行宣言及びその免脱宣言につき同法一九六条を各適用して、主文のとおり判決する。 (大城光代)

(別紙)主要著書<省略>

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